6年生は、歴史授業のために牧之原コミュニティセンターに行ってきました。小学校から2.8キロ、このあたりから頑張って歩いて登校している生徒さんも多いですね。
よく晴れた五月晴れの中、ぜひ歩いていきたい!という声もあったそうですが、盛りだくさんの予定をこなす忙しい6年生、市の無料バスを使って小遠征。あっという間に着いたそうです。
子供たちが様々な経験をしながら学習できるよう、日々裏方の手配その他にもご尽力くださっている先生方、職員の皆様に本当に感謝です。
今日は、大井航空隊の歴史について学びます。 説明をしてくださるのは、牧之原市相良文化調査事務所の松下さん。
第二次世界大戦が激しさをます太平洋戦争中の1942年(昭和17年)、日本海軍はパイロットの訓練をする大井海軍航空隊を牧之原台地に設置しました。当時は2500人から3000人の人がいたそうです。
滑走路を造るために、ミニストップのあたりにあった当時の牧之原小学校が現在の地に移転することになったことはよく知られていますね。
しかし、2年の月日をかけて造られた航空隊ですが、完成の3年後に日本は戦争に敗れ、ほとんどすべてのものはアメリカ軍によって破壊されてしまったそうです。
コミュニティセンターに残されている練習機「白菊」のエンジンとタイヤを見せてもらいます。当時のタイヤが残っているとはびっくりです。戦争を忘れたくないと考えた牧之原の人々は、飛行機のエンジンを海に沈めて戦後の廃棄処分を逃れ、のちに海から引き揚げたため残っているのだそうです。
当時、「時鐘」と呼ばれ起床や消灯の時間を周囲に知らせていた鐘は、今は「平和の鐘」として残されています。
ほど近い道路沿いに残される隊門の一部も見学します。 運転中に目にする場所ですが、当時の門がそのまま残っているとは知りませんでした。
実際に使われていた防空壕も見に行きます。 10人ほどが入れる大きさ。当時は200個ほどの防空壕が作られたそうです。
80年ほど前にこの牧之原でも本当に戦争があり、爆撃や空襲から逃れるために防空壕に隠れなくてはならない方々がいたのですね。 史実として頭では知っていることですが、実際の様子を目にした子供たちの感じ方もいろいろなのではないかと思います。
自分たちの住んでいる場所の歴史を訪ねる学習、とても意義深く興味深く感じました。
今回説明して下さった松下さんは、「火のおこしかた」を教えてくださるという予定もあるそうです。
何の学習でしょうか? またまた楽しみですね。

